【北海道に被爆者が多いわけ】

北海道の被爆者
北海道にはかつて1000名とも2000名ともいわれる被爆者がいた。2020年3月現在被爆者手帳所持者(いわゆる認定された被爆者)は248名で平均年齢は84.35歳である。内訳は以下の通りである。
被爆地 人 数 1号被爆者 2号被爆者 3号被爆者 4号被爆者
広 島 170 102 49 14 5
長 崎 78 60 6 8 4
合 計 248 162 55 22 9
(2020年3月31日現在:北海道地域保健課提供)

広島・長崎から遠く離れた地でありながら、北海道の被爆者の数は他県に比べて相対的に多い。それはなぜであろうか。

被爆者とは
国(厚生労働省)が認定している被爆者は4つに分けられる。1号は直接爆撃を受けた被爆者で、2号は入市被爆者と言われる。2週間以内に、救援・医療活動、親族探し等のために、爆心地から約2kmの区域内に立ち入って被爆した人々である。3号は救護被爆者と言われ、被災者の救護、死体の処理などに携わり被爆した人々、4号は上記の1~3の被爆者の胎児だった胎内被爆者である。こうして認定された被爆者は全国で136,682名、平均年齢は83.31歳である(2020年3月末)。
しかし原爆医療法が施行(1957年)される以前、亡くなった被爆者やその家族は何の援護もなく放置されていた。したがって日本被団協(日本原爆被害者団体協議会)は彼らやその家族を含めて原爆被害者と総称している。

被爆者がなぜ北海道に
広島・長崎から遠く離れた僻遠の地北海道になぜこんなにも多くの被爆者がいるのだろうか。それにはおよそ次の4つの場合が考えられる。
一つは広島・長崎で被爆した後、親戚を頼って北海道に渡った人々、二つには結婚、就職、転勤等で移り住んだ人々である。
三つには、北海道の出身で、徴集・召集または志願して軍隊に入って広島に駐屯し、直接被爆するか被爆直後の街中に救護等に入って入市被爆し、その後故郷北海道に帰った人々である。
四つには、戦後すぐ政府は戦災者や失業者、引揚者を開拓民として全国に送り込んだ。北海道は戦後開拓の中心地のひとつである。この中に少なくない被爆者がいた。開拓には想像を絶する困難が伴った。
そしてこれらのケースにある事情がオーバーラップする(あるいはもうひとつの要因と考えることもできる)。それは広島や長崎から遠く離れたい、悲惨な悲しい思い出を忘れたい、どうせ苦労するなら知らない土地でなど、様々な思いがあった。いわば北海道に「新天地」を求めたのである。

北海道被団協の結成
北海道被団協の結成

原水爆禁止(原水禁)運動が広がるきっかけになったのは1954年のビキニ事件である。翌55年に原水爆禁止世界大会が広島で開催され、56年の長崎大会の時に日本被団協(原水爆被害者団体協議会)が結成された。北海道でも被爆者救援、原子兵器反対を掲げる原水禁運動が始まる。各地に被爆者の組織もつくられ、1960年にそれらが一つになって北海道被団協(現被爆者協会)が結成された。(写真参照)

北海道は「新天地」だったのか
ある被爆者は晩年「逃げて、逃げて、逃げて、北海道へきた」と語った。自ら被爆者であることを隠して教員の道を全うできたことを喜んだ。またある被爆者は産後の肥立ちがよくなく、「被爆したからでしょうか」と医師に尋ねたら、「ヒバク?何だそれ」と言われた。それ以来彼女は自分が被爆者であることを封印し続けた。
様々な過去をもった人々が全国から北海道にきた。他人のことにあまり深く干渉しないのが北海道のいいところだとよく言われる。しかし被爆について無知であることは、援護の遅れのみならずしばしば差別の温床ともなった。広島で被爆したことがわかると「ウツる、近寄るな」と言われた者は少なくない。その意味では決して北海道は「新天地」ではなかった。
しかし、被爆者はいつまでも自分の過去を隠したわけではない。自らくぐらざるを得なかった理不尽な生涯を振り返った時、やがて「ふたたび私たちのような被爆者を作ってはならない、核兵器のない世界を」と立ち上がった。福島の原発事故が起きたとき、放射線による子どもたちの甲状腺への影響が心配された。「ヒバク?何だそれ」と言われて自ら被爆者であることを封印していた女性は、その時から被爆体験の語り部となった。
様々な事情を抱えながら、被爆者は北の大地に新しい生活の基盤を築いてきた。
北海道は「新天地」だったのか



【北海道被爆者協会 運動史・活動年表】

2020年は戦後75年、そして被爆の75年である。アジア・太平洋戦争と被爆に対する痛切な体験が日本国憲法を生み出し戦後の平和を築いてきた。核兵器禁止条約が国際法として発効する(2021年1月22日)のは戦後史のひとつの到達点でもある。
しかし戦争体験者と被爆者の高齢化は否定すべくもない。全国的にも活動停止を余儀なくされる被爆者の組織が出ている。また75年たって戦争も原爆も次第にリアリティーをもって受け止められなくなっている。戦後生まれはすでに日本の人口の8割を超えており、被爆体験と運動をどう継承するかが大きな課題となっている。
いま核兵器廃絶をめぐって二つの力がせめぎ合っている。核兵器に固執し核開発・核兵器の近代化と核抑止を続けるのか、そうではなく非人道兵器の核兵器をなくし、戦争も抑圧もない世界を歩むのか。被爆者とともに積み上げてきたこれまでの運動の中に、新たな世界を展望する指針があるに違いない。
北海道被爆者協会 運動史・活動年表



【ノーモア・ヒバクシャ会館はなぜ建てられた?】

平和通りのヒバクシャ会館
札幌市白石区の平和通りの奥まったところに北海道ノーモア・ヒバクシャ会館が建っている。JR千歳線の平和駅を降りて長い跨線橋を渡り切ったところに位置している。平和通りといい平和駅といい、地名に地域住民の願いが込められている。そこに新しくノーモア・ヒバクシャ会館が加わった。

被団協ができて
1960年には北海道原爆被害者団体協議会(北海道被団協、現在の被爆者協会)が結成された。そして1965年から毎年8月6日に原爆死没者追悼会(最初は慰霊祭と言った)が開かれるようになった。初めは道被団協と宗教者平和協議会の共催であったが、のち宗平協を中心に実行委員会がつくられ、多くの団体・個人が参加するようになって今日に続いている。

「いこいの家がほしい」
1968年の第4回追悼会の場で、広島で被爆し道東・網走の近くの東藻琴(現大空町)に開拓に入った定安正巳さんが、「被爆者が気兼ねなく話せる、いこいの家がほしい」と訴えた。そのことが被爆者や支援者の間にひろがり、徐々に会館建設の運動となり、1982年に北海道ノーモア・ヒバクシャ会館建設委員会が組織された。名前には「ふたたび被爆者をつくらない」という願いが込められた。

500円レンガ募金
建設委員会はユニークな運動を展開した。会館を建設するレンガを500円で買って下さい、レンガにあなたの名前を刻みます、とレンガ募金を訴えた。この運動は全道各地の団体や市民に、そして全国に広がった。海外からも反響があった。ところが建設用地の確保は苦労した。北海道や札幌市などは「前例がない」と断った。思い余って新聞の「読者の声」欄で呼びかけたところ、ニセコ町に住む篠田トシ子さんが「小樽にある私の土地を使って」と申し出てくれた。その結果代替地を現在の場所に確保することができたのである。この寄付を含めて、レンガ募金は総額4500万円を超えた。
北海道被爆者協会 運動史・活動年表


平和の発信基地
会館は1991年12月23日に落成した。しかし思いのほか建設費がかさんでレンガ造りの建物にはできなかった。寄付者の名前と住所は、購入してくれたレンガの個数とともに、名簿に記載し保存されている。
1階は北海道被爆者協会の事務所、2階は被爆者が寄贈した遺品を中心とする展示室、3階は図書室および研修室になっている。広島・長崎に次ぐ全国で3番目の、そして初めての“民間立”の原爆資料展示館である。
会館には多くの市民が、団体や個人で、時には親子や家族で、そして小学生から大学生までがしばしば学校やグループ単位で訪れる。外国人の見学者も珍しくはない。来館者は展示を見学し映像を視聴し被爆者の証言を聞いて、ふたたびあのような愚かな行為を繰り返させてはならないと備え付けのノートに記していく。北海道ノーモア・ヒバクシャ会館は平和の発信基地である。
北海道被爆者協会 運動史・活動年表



【図書・動画目録】

図書・動画目録
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【サイト作成にあたった人たち】

本文・編集
中井桂子 塚本裕子 河道前伸子 佐々木瑛 斎藤哲 大谷博 北明邦雄

資料
平真知子

イラスト
那須有紗 芝 彩香

写真提供
中井若菜 川去裕子 脊戸盛治 仙波メイ子 広島平和記念資料館 長崎原爆資料館 日本原水爆被害者団体協議会 原水爆禁止北海道協議会 北海道被爆者協会

展示品撮影
NAO写真事務所 棟方直仁

監修
廣田凱則

 
一般社団法人 北海道被爆者協会
北海道ノーモア・ヒバクシャ会館
〒003-0029 札幌市白石区平和通17丁目北6-7
電話・FAX 011-866-9545
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■開館時間 10:00〜14:00(開館時間が変更になる場合があります。詳しくはツイッターをご覧ください。)
■定休日  毎週土・日(7月~9月は日曜日開館)・祝日
■ただし12~3月末までは冬期間につき毎週月~水の3日間のみ開館。開館時間は同じ
■入場料  無料
■アクセス方法
・JR千歳線:普通電車で平和駅下車・長い歩道橋を右へ、出口の前
・タクシー:地下鉄東西線南郷18丁目駅より約5分
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