1945年8月
その時子どもたちは

原爆投下までの
広島の子どもたち
1944年サイパン島の陥落以降、都市部への空襲が激しさを増した。地方に親戚や知人などがいる子どもはそこに縁故疎開※1し、それ以外の国民学校初等科のおよそ3~6年生の子どもたちは、地方の寺などに集団疎開させられた。学校に残ったのは、1・2年生、女性教師が主で、分教場(お寺など)での分散授業も行われていた。国民学校※2高等科以上(国民学校高等科、高等女学校、中学校など)の生徒は工場や農家など戦争遂行のために必要な仕事に動員され(学徒動員)、ほとんど授業を受けることがなかった(1945年4月からは中学校以上の授業は停止された)。

建物疎開
空襲による被害を防ぐため、重要施設の周囲住宅密集地に防火地帯を設置することを目的に家屋を強制的にとり壊す建物疎開が軍部主導で行われた。 広島市では、7月から市を南北に二分する、幅100メートル、長さ5キロメートルに及ぶ防火地帯を作る作業が突貫工事ですすめられた。 これには、民間業者や軍隊、市民による国民義勇隊が動員されたが、8月に入ると、それまで勤労動員から除かれていた中学校、女学校、国民学校高等科1,2年生(12~14歳)全員が動員されることとなった。

※1 疎開 密集している人員や建物を分散させること。子どもたちや人びとを都市から田舎に移すことを一般に疎開、建物を取り壊すことを建物疎開と言った。
※2 国民学校 その当時、今の小学校を国民学校といい、初等科6年、高等科2年であった。
国民学校初等科の上に5年制の中学校(男子)と高等女学校(女子)があった。

建物疎開作業のようす
建物疎開作業のようす
作/濱田義雄氏  所蔵/広島平和記念資料館


1945(昭和20年)8月6日
8時15分
8月6日 晴れ その日もいつものように暑い夏の一日が始まっていた
広島の学校の夏休みは8月10日からだった。幼い子どもたちは家やその周りで遊んでいた・・・初等科1,2年生の子どもたちは、登校の途中、または分教場に・・・高等科や中等学校1・2年生を中心とする生徒たちは市の中心部の建物疎開に出ていて、整列し点呼や指示を受けていた。上の学年の生徒たちは農家や工場の仕事に動員され、汗を流しながらの作業が始まっていた。

子どもたちの上空約580mで原爆が炸裂した
ほとんどの子どもが強烈な熱線で即死。助け出された子どもたちも高熱火災による大やけどや倒壊した建物の下敷きになって重症の怪我をおい、多くの子どもたちが苦しみながら亡くなった。爆心地から350mの本川国民学校では約200人の児童と数名の教師が登校していたが、校庭にいたものは即死、校内にいたものも即死か大けがをし、2名を残して全員が亡くなったという。建物疎開作業は原爆が落ちた市の中心部で、しかも屋外で行われていたため、当日動員された子どもたち約8,400人のうち、およそ6,300人が犠牲となった。遺体さえわからぬ子が多かった。

<堀尾英治さんの場合>
広島平和記念資料館に展示された遺品からもその惨状を知ることができる。
当時13歳だった堀尾英治さんは、爆心地から600メートル離れた建物疎開の作業現場で被爆しました。全身に大火傷を負い、川に浸かっていたところを同級生の母親に助けられました。知らせを受けた母親が迎えに行きましたが、まわりは顔が分からないほどの大火傷を負った子どもたちばかり。英治さんの名前呼ぶと、「ここにいる」と返事が聞こえ、見つけだすことができました。母親がリヤカーに乗せて自宅に連れ帰りましたが、両親が「英治! 英治!」と呼ぶ声を聞きながら、8月10日に亡くなりました。
この学生服は、火傷で皮膚にはりつき、母親がはさみで切って脱がせたものです。
(広島平和記念資料館HPより)
学生服
寄贈/堀尾祐子氏  所蔵/広島平和記念資料館


広島の子どもたちの命の明暗を分けた建物疎開
広島の建物疎開動員学徒の被害は全国最大といわれる。
7月初旬 中学校1,2年生と国民学校高等科の生徒を建物疎開に参加させるかが協議された。学校関係者は、空襲が頻繁な状況のもとで年齢の低い多人数の子どもたちが避難不可能な場所で作業することを憂慮して反対し、会議は硬直した。しかし軍責任者の圧力により、引率教師の増員と終了時間2時間の短縮で遂行されることが決まった。このような状況下で 動員担当、引率にあたった教師には苦悩と様々な判断があり、その違いが生徒たちの運命を変えた。
ある教員は年少の生徒が休日もなく働き空きっ腹で疲れ果てている様子を心配して、辞表を出す覚悟で命令を断った。このように担当教師の判断で6日中心部での被爆を免れた生徒たちもいたのだった。
(『慟哭の悲劇はなぜ起こったのか―その明暗を分けたもの―』建物疎開動員学徒の原爆被災を記録する会2005年3月1日)

原爆投下と障がい児学校
戦時中、全国の障がい児学校の4割が空襲による大きな被害を受けた。
広島や長崎に住む障がい児たちが、奇跡的に原爆による直接の被害を逃れられても家や家族を失うなど、戦後も過酷な状況を生き抜かなくてはならなかった。
現在に残された記録からは、非情な戦時下の中でも障がいを持った子どもたちは自立をめざし奮闘し、多くの教師達はその生命を必死に守りぬこうとしており、その姿に胸が痛くなる。

8月6日
広島県立盲学校(現広島県立中央特別支援学校)では、1945年4月から全校疎開していたため、人的被害を免れた。しかし校舎は全焼した(同校は1945年 3月19日に機銃掃射を受けている)。
広島県立聾学校(現広島県立広島南特別支援学校)は、疎開により人的被害は免れたが、校舎・寄宿舎は半壊、講堂は全壊する被害を受けた。

8月9日
長崎県立盲学校は、所在地が爆心地に近かったため校舎は全壊。生徒は疎開中であったが、市内で自宅待機していた生徒の内、4名が原爆によって亡くなり、校長先生も市内で被爆され亡くなられた。
長崎県立聾唖学校(現長崎県立ろう学校)は、分校の教員二名と、未疎開の予科生幼児十数人が爆死。校舎も全壊の被害を受けた。

参照書籍名:『太平洋戦争下の全国の障害児学校 被害と翼賛』2018年10月15日初版 清水 寛 著
表4:太平洋戦争下の障害児学校の空爆被害一覧(16頁)・資料2の総括表(50、55、56 頁)を参照。


1945(昭和20年)8月9日
11時2分
8月9日、長崎も朝から日差しの暑い中、何度も警報が出たり解除されたりしていた。学校は夏休みだったが、校舎の多くが三菱重工業長崎兵器製作所など軍事関係の工場や部署に使われ、国民学校高等科や中等学校の生徒たちは学徒報国隊としてこうした学校や軍需工場などに県内外から動員されていた。この日も多くの生徒たちが動員されていて原爆の犠牲となった。特に爆心地に近い建物では多くが死亡し行方不明者も多い。夏休みだったので爆心地に近い学校の児童は自宅で被爆している。(爆心地から400mの城山国民学校では1945年10月末時点で児童324人のうち130名が死亡している)

<長崎で被爆した渡辺千恵子さんの記憶>
渡辺千恵子さんは脊椎損傷という大けがをして生死をさまよった末、奇跡的に命はとりとめたものの長い間寝たきりの生活となり原爆症にも苦しんだが、二度と自分のような思いをする人のない平和な世界をと願い被爆の体験を伝え続けた。
わたしは16歳の女学生でした。その日の朝、いつものように8時の集合時間にまにあうように、あわただしく朝食をすませ、家を出たのでした。「警戒警報」が出ていたのですが「学徒報国隊員」は、「空襲警報」でない限り動員場所に行かなければなりません。わたしは、油屋町の自宅から大波止の船着き場にいそぎました。対岸の平戸小屋町にある三菱電機製作所へ行くためでした。
そこで、わたしたち女学生は、兵器生産にたずさわっていました。モンペ姿もかいがいしく「撃ちてしやまん」「米英撃滅」といった教育を受けながら、探照灯のコイルに、白いテープを巻きつける作業をみんなでしていたのです。10時15分ごろ、仕事のことでA技師に用ができ、クラスメートの山下さんと二人で、手のひらの小さな豆のかたさをじまんしあいながら、肩をならべて工場をとおりぬけ、おちゃめな女学生気分で、本館の窓ごしにA技師の部屋をひょいとのぞきました。
その瞬間、原爆が落ちたのです。ピカッ! 目もくらむ青白いせん光―。
わたしは、無我夢中で工場をつきぬけ、防空壕に逃げようとしました。とっさのことです。わたしは5メートルと走らないうちに気を失ってしまったらしいのです。・・・・略・・・わたしはたちあがろうとして、ハッとしました。工場の重い鉄筋のハリの下敷きになって、からだはエビのように曲がり、頭と足はピッタリくっついて、もがこうにももがけません。
(渡辺千恵子著『長崎を忘れない』草土文化1980年7月より)
渡辺千恵子著『長崎を忘れない』


子どもたちの戦後
直後の死や直接の被ばくを免れた子どもも苦しい戦後の生活が待っていた。家族を失った原爆孤児は広島で2,000から6,500人といわれ、長崎ではその数も実態も分かっていない。彼らは戦災児育成所などに引き取られたが、肉親を失った悲しみは癒えることがなく大変な苦労が強いられた。施設になじめず逃げだすなど、様々な事情から路上で暮らす子もいた。彼らは自力で生計を立てるため街頭で靴磨きをするなどして懸命に生きた。厳しい生活環境の中で自らも原爆症を抱えていたり差別を受けたり、苦しい戦後を生きなくてはならない子どもたちが数多くいた。(『図録 広島平和記念資料館 ヒロシマを世界に』2019年3月、他を参照)
 
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