1945年8月
広島・長崎で起きたこと


【広 島】

アジア・太平洋戦争(第二次世界大戦)の末期、1945年(昭和45年)8月6日午前8時15分、広島に人類史上初の核攻撃として、一発のウラン型原子爆弾が落とされた。
当日の天候は快晴。夏らしい暑さの中、アメリカ軍のB29型爆撃機エノラ・ゲイ号から放たれた原子爆弾「リトルボーイ」は、相生橋にほど近い島病院の上空約580メートルで、投下から43秒後に閃光とともに炸裂した。爆心地の地表の温度は3000~4000度に達したと言われる。爆発とともに強烈な熱線と爆風、そして放射線が街を、人々を、容赦なく襲った。

閃光と爆風がほぼ同時に襲ったため、爆心地500メートル圏内では建物のほとんどが一瞬に破壊され、屋外にいた者は即死、場所によっては強烈な熱線により、その遺体すら残らず、石段等に影を残すのみ、といった例もみられた。
爆心地から半径2キロメートル圏内で、屋外にいても即死をまぬがれた人もいたが、数日のうちにほとんどが死亡し、屋内にいた人々も家屋の下敷きになって圧死したり焼死したりした。木造建築のほとんどは倒壊、消失した。

広島県産業奨励館と爆心地付近
広島県産業奨励館と爆心地付近
  撮影/米軍  提供/広島平和記念資料館



【長 崎】

広島の原爆投下3日後の8月9日午前11時02分、アメリカ軍はB29型爆撃機ボックス・カー号からプルトニウム型原子爆弾「ファットマン」を長崎に投下した。
雲の切れ間から長崎の街が目視できた、その時のことであった。

原子爆弾は、爆心地である長崎市松山町上空約500メートルで炸裂した。
その瞬間、閃光がひらめき、熱線と爆風、そして火災が長崎市を襲った。爆心地から2.5キロメートルまでの範囲では実に風速60~440メートルというすさまじい爆風に見舞われ、爆心地から1キロメートル以内の木造建築に至っては粉々に吹き飛び、跡形もなくなった。

広島と同様に、長崎でも爆心地近くの屋外にいた人は即死、即死をまぬがれても体中にやけどを負ったり大量に浴びた初期放射線で数日で命を落とした人が多かった。

松山町の高台から浦上天主堂方面を望む
松山町の高台から浦上天主堂方面を望む
  提供/長崎原爆資料館



【広島・長崎で共通すること】

きのこ雲と黒い雨
原爆の炸裂後、大きなきのこ雲(原子雲)が近隣の街から見られた。また、そのあとには時間や雨の量、降った時間など場所によって若干異なるが、黒い雨が広島・長崎に降った。この黒い雨には多くの放射性物質が含まれていたために、黒い雨に濡れた人々の中には、後日、放射線による病気等を発症して苦しんだ人も多かった。

人々の被害状況
爆心地近くの人々は、一瞬の熱線とすさまじい爆風に逃げ隠れする暇もなかった。
そのために、即死、焼死したり、熱線でうけた重度のやけどや大量に浴びた初期放射線の影響で、多くの人が数日で亡くなった。
皮膚を焼かれ、爆風により飛散したガラスなどが体中に刺さった状態で、焦土と化した街を逃げまどった人も多かった。その様子はまさに地獄絵図としかいいようのないものだった。
運よく、コンクリートの遮蔽物の陰にいたとか、地下室や防空壕のなかにいたことで、熱線の直撃をまぬがれた人々もいたが、そういう人たちでも、爆発時の初期放射線を大量に浴びたために、あとから原爆症など放射線による病気を発症して亡くなったり、生涯にわたり体調不調に悩まされたりする人が多かった。

中には、長崎から訪れていた広島で被爆して、そのあとすぐ長崎に帰った人や、焦土と化した広島から逃れて長崎へと避難したことによって、長崎でも再び原爆被害をうけた人々がいる。
このように、広島に続き長崎と、2回にわたって被爆した人のことを二重被爆者という。

生き残った被爆者も、被爆によりひどいやけどのあと(ケロイド)が残ったり、病気になったり、通常の生活が送れなくなったり、結婚や就職そのほかで差別を受けることも多く、生涯にわたり苦しい思いをした人も多かった。単に家や家族を失ったから、という理由だけでなく、その差別から逃れるために、遠方の都道府県の親類知人を頼って転居したり、被爆者であることを隠して知らない土地で新しい生活を始めようとする人もいた。

また、原爆は爆発後も長時間にわたり残留放射線を残したため、爆発後に肉親等を探しに入市したり、救護活動のために入市した人々の中にも、直接被爆した人々のようにあとから原爆症など放射線による病気を発症したり、死亡する人もいた。これらの人々を入市被爆者という。
特に広島は、明治以降軍都としても機能していた。宇品に司令部があった暁部隊をはじめとして多くの兵隊が、原爆投下後まもなく市内での救護活動に動員され、多くの入市被爆者を出した。この暁部隊には日本各地の出身の兵隊も多く、戦後北海道をはじめとして各地に被爆者がちらばっていくことになった。

広島・長崎の原爆により被爆したのは、なにも日本人に限ったことではない。当時、広島や長崎には、日本の植民地であった朝鮮から働き口を求めて日本に渡ったり強制連行されてきた人たちが大勢いた。また中国や東南アジアからの留学生や、刑務所や捕虜収容所に収監されていたイギリス、アメリカ、オーストラリアなどの連合軍捕虜もいた。彼らの多くが原爆の犠牲になった。さらに原爆投下後に調査にきて入市被爆者となったアメリカ人らの中にも、亡くなったり、被爆の後遺障害に苦しんだ人がいたことを覚えておきたい。

慰霊碑

 
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